① 「えー ・ウソー」。 卑弥呼 「少有見者 ・年己長大」 徒然草「坊にこもりて・誰にも会わず、二の舞の面のように 」「みやでん・阿遅須伎高日子根命神」では、ないかとの疑問 。「一挙解決」。 ② そのような 探索の中から令和3年 (2020年)頃 「あわれにぞ つゆのすみかを たずねけれ、きえにしあとに のこることのは」安喜門院 大弍の詩。 どこで見たのかと再度 探し回った。するとその途中 、徒然草 62段 42話 「唐橋中将の子に ・・・」を読む。 ③ 魏誌倭人伝も「少こしはかじって見た。」が 「こリャー駄目だー。」わしの領域ではない。 と撤退した。 峯相記「範郷」は、大鏡でいう**「河公」すなわち 藤原伊尹(Wikipedia)(たった四文字・封三河国) すると乳母は、藤原師輔の子 藤原繁子(Wikipedia)。たった7文字(一条天皇の乳母)**と記してある。 乳母「藤原繁子」となる以上 、我が子を産んでいる。その子が 「覚超」。
④ 安喜門院「阿弥陀種子版碑」「女の物言いたる語りごと」そこいらへんが入り口だったよねー。
有馬法師と有馬則頼公を結びつけるまでには、4〜5年の歳月。 ⑤ 妙徳山神積寺の弄に、「1588年 有馬法師により寄進」と記され、有馬法師とは、いったい誰なのか。と言うのが 私の古代史研究の端初だったよねー。